2021年2月22日&3月9日のインタビューをまとめたものです。
インタビュアー:コンセントカフェオーナー・村井順一氏(以下敬称略)
〜学生時代 | |
村井 | 2019年にはまだ大阪府内で教員、公務員ですか? |
歌原 | ばっちり公務員です |
村井 | 何年くらい教員してたの? |
歌原 | 10年くらいしてました。関東生まれ関東育ちなんです。生まれは茨城の水戸です。高校卒業までいて、大学で東京にでました。 |
村井 | スポーツとか運動とか何かしてたんですか? |
歌原 | 運動は全然なんだけど、中学校と高校で合唱をやってました。大学では合唱団に入りました。 |
村井 | なんで合唱を選んだの? |
歌原 | 小学校まで遡るんですけど、私小学校大っ嫌いだったんですよ。私3年生の夏休み明けから今の地元の学校に転校したんですけど、4、5、6年の時に同じ先生でその先生とまーあわなくて3年間地獄だった(笑)私が言ったことに対して、ちゃんと受け取ってくれないとか、音楽の授業を私にやらせたりとか。あんまり覚えていないんですけど…とにかくこの地元から出たいと思って、中学受験して、外の私学に行って合唱に出会ったんです。 |
村井 | 中学校で、合唱したいねんってわけでなく? |
歌原 | 音楽はピアノをずっとやっていて好きだったので、気になっていた中学校がキリスト系の学校で讃美歌をすごくよくやってて、音楽をやるんだったらいいな〜と思って入学しました。音楽がやりたくて入りました。ちなみに、讃美歌は普通の教会で歌うやつだったけどね、楽しかったんですよ。 |
村井 | 歌うって何がいいんですか? |
歌原 | 私は小学校の時に自分の本当のことを言ってもなかなかその先生に受け止めてもらえなかったので、だから本音を言うことを半ば諦めてました。でも、歌になるとそれがちゃんと表に出せたり、自分の声で内側から出せたりする。それを一人だけでなくて、複数人で合唱の形でハーモニーができて、人の声が作る響きになる。機械音でも楽器音でもない、人間の声の美しさ。「これが平和なんだな」と思ったんです。「その歌を聞いてくれている人含めてその空間が全て平和なんだろうな」と思ったので、私にとって歌ってすごく大事なんですよ。歌は、自分の中から表現したいってことを表に出せることができます。中学校から始めて高校では全国大会で銀賞を取りましたし、高校3年生の時に合唱祭に招待されてドイツでも歌いました。 |
村井 | 高校卒業後も合唱を? |
歌原 | 実は、私は音大のピアノ科なんですよ。でも、ピアノを弾くよりも歌ってる方が多かった(笑)高校3年くらいの時に大学どうしようかなってなったときに一回ピアノやめようと思ったんです。でも、習ってた先生やうちの親とかにちょろっとそれを言ったら、いやいやいや…みたいな。「私が自分がこうしたいって思った通りにならないんだな。自分の人生って本音を言っても、そうはならないんだ」っていうのがあった。 |
村井 | 自分を表現するにはピアノでは伝えにくくて、自分の声の方が自分にとって表現しやすかったの? |
歌原 | そうですね。しかも、ソロじゃなくて合唱だから。「隣の人と繋がりたかった」というのがあって、そんなわけで大学はピアノ科だったけど、断然歌う方が多かった。大学では、外の一般合唱団に入ってました。ずっと憧れていた合唱団でした。入団テストは無くて誰でも入れるんですけど、多分、合唱関係者だったら名前聞いたらわかる人の合唱団だったんです。 |
村井 | あれ?そもそも教師になったのはなんで? |
歌原 | 小学校の時の4、5、6年の担任が大嫌いだったというのがあったのと、実は両親が小学校の教員なんです。二人とも教員をやってて大変そうだなと思って見てたんですよ。子どもの時に小学校の先生にならないでいようと思ってた。 |
村井 | どんなご両親ですか? |
歌原 | 両親はいい先生なんです。娘の私が言うのもなんなんですが、でも、「大変なんだろう」と子どもながらに思っていました。家に帰っても仕事してるし。 |
村井 | 家での教育はどうだった? |
歌原 | 忙しいながらによく見てくれてたよなと。私が子どもの時に病気しがちなのもあって、過保護っぽくもあったんです。だから、娘も学校の子どもも同じように愛していたと思います。 |
社会人(関東) | |
村井 | 大学卒業したときに教員免許を取ったの? |
歌原 | 取りました。中学校と高校の音楽の教員ですね。大学卒業してから茨城戻って。母校の中学校の恩師だった先生が産休に入るっていうので代理の講師という感じで中学校の音楽の先生になりました。 |
村井 | 母校に戻ったんだね。何年くらい続いたの? |
歌原 | 年度の途中から行って、その次の年の3月まで勤めたんで、8ヶ月くらいです。その後、一回東京に戻ったんです。それで教員辞めました。 |
村井 | スッゲー移動してますね。辞めてどうしたの? |
歌原 | 辞めて派遣で東京で普通の会社に勤めてました。地元の中学校で教えていた時に、「私全然世間のこと知らないな」と思って…。子どもたちにいろんな大事なことを教えているときに、自分の中で根拠がないなと思って、「口ではなんかいいこというけど私はほんとにそう思っている?というこれが社会に出て大事?」っていうのことを確かめたくて。 |
村井 | 派遣は何年くらい? |
歌原 | 2年くらいです。会社では、私がよく上司に文句言ってましたよ。「なんでこんな適当なことやってんですか」って喧嘩売ってました(笑)上司がおかしなこと言うからね。 |
村井 | どういうきっかけでまた教員に戻ったの? |
歌原 | また学校戻りたいなとふと思ったんです。東京で派遣社員で働いて会社を辞めて、次は東京の小学校にいきました。 |
村井 | ちなみに、教員ってすぐ戻れるんですか? |
歌原 | 結構、講師の募集とかは毎年あるので、やりたいと思ったら特に小学校なんかは戻りやすいです。でも、その時は小学校の教員免許を持ってなかったので、非常勤で授業するって言うよりもそのクラスに入ってサポートするみたいなんだったんです。その時に行った小学校がほんといい学校で…! |
村井 | 何が良かったの。先生?生徒? |
歌原 | どっちも良かったの。ほんとに子どもたちに対する姿勢がすごく良くて、すごく素晴らしいなと思って、小学校の先生良いかもなってなりました。そこから勉強して、小学校の先生を通信で取りました。次が、埼玉県の小学校に行こうと思いました。講師はいろいろ種類があって、東京では非常勤講師で、埼玉では常勤講師。常勤講師は、採用されている先生と同じ条件で働けます。実は、小学校教員って小学校の免許がなくても中学校の免許持ってたら臨時的に免許を出してくれるんですよ。それで担任しながら、通信で教員の免許を勉強してました。昼間に授業やって、仕事やって、遅く帰ってきてレポート書くみたいなそんな生活。 |
村井 | ちなみに、小学校の先生になろうと言う気持ちが芽生えたのはいつ? |
歌原 | 東京の小学校に勤めた時です。大学卒業の時に、中学校と高校の音楽の教員免許は持ってました。東京の学校に勤めたときは、非常勤で、小学校の免許がなくても何かしらの教員免許があったらできますよという採用の条件だったので、中学校高校の免許で非常勤で採用されました。 |
社会人(大阪) | |
村井 | 大阪来る前に結婚しているの? |
歌原 | 埼玉行ってから、2月に結婚して年度が終わって、4月に大阪に行きましたね。主人が元々大阪人で、大阪で教員なんですよ。別に教員だから結婚したわけじゃなくて、たまたま会ったら教員だったっていう。私、結婚する条件として、「私がやろうとすることを止めるなよ」っていうのを言いました(笑) |
村井 | すごいね。大阪では免許まだだよね? |
歌原 | まだ通信でとってる途中でした。大阪に来た年に採用試験を受けたんですよ。来てから半年くらいは、「とにかく1回で合格したいから、半年間時間ください」って主人に頼んで、試験に1回で合格というところだけを自分で追い込んだみたいな感じですね。 |
村井 | それは何年前ですか? |
歌原 | 9年前くらい。2012年かな。 |
村井 | 中学校の先生してたのに、なんで小学校が気になったの? |
歌原 | 一つの方向からじゃなくて、いろんな方向から子どもたちを見たいなと思ったんですよ。音楽は音楽でいいんですけど、普段の子ども達の様子とか、この場面はこういう顔を見せるけど、この教科だとこういう風になるんだねとか、その子の強みとかを多面的に見たかった。 |
村井 | 音楽の先生は、音楽室に来た子どもとしか関わらないみたいな感じですよね? |
歌原 | 東京の小学校とかは、子どもたちと関わる時間がたくさんあっていろんな形で関われるから良いなと思ったけど、もうちょっとこう…いろんな関わり方をしたかったです。 |
村井 | マザーテレサ的な考え!?どうしたかったの? |
歌原 | 小学校の時の自分の経験なんですけど…子どもがやったことに対して、表面上で起こったことだけしか見ずに指導されることが本当に嫌だった。ちゃんと見てくれてないよな、って私自身思ったんです。行動には必ず理由があるから、なんでこの子は今○○したのかなとか、今何に困ってるのかな、とかそういうことの理由を明らかにして…明らかになったらその子に「これやってみたら?」って言えるし、今は何が苦手なのか、っていうこともわかる。そうしたら克服することも明らかになりますしね。 |
村井 | 経験から、私やったらこんな風にできるのにっていうのが芽生えたの? |
歌原 | 教員自体は、合唱をやったことで「こういうことを子どもたちに教えられるのって良いな」って思って、先生には絶対ならないって思ってたのが、教員になってもいいかなって変わったきっかけになったんですよ。その子の様子を見たりとかして、多分ここら辺でちょっとつまづいてるかなとか、この辺何かあるかなっていうのを見て、そこをちょっと本人に言う時もあるし、それか素知らぬ感じでサポートするのもありますね。 |
村井 | あー、しんどくなるパターンの先生ですよね。教員試験は1発で受かったの? |
歌原 | 1発で受かりました。2013年に採用されました。で、大阪府の教員になりました。年が明けたくらいに、採用された自治体から採用の案内が来るんです。もう採用なんで、断れないです。当時住んでた家から、片道1時間半が圏内と言われていて、、、都市伝説的な。採用された学校は、ピッタリ1時間半かかるところでした。おぉって感じでした(笑) |
村井 | そのころは、何時出勤? |
歌原 | 一応8:30なんですよ。でも子どもたちは8時前には来てるっていう矛盾。だから、私はたしか7時過ぎに学校着いてましたね。だから、5:30に家を出てました。それが耐えきれなくて半年後くらいで近くに引っ越しました。1時間半かかるところだったけど、最初はがんばったんですよ。でも、主人に頼むから引越しさせてくれてってお願いして。でも、引っ越したら主人は職場遠くなりました(笑) |
村井 | 流石に、7時はまだ子どもいないよね。 |
歌原 | いないですね。たまに、すごく早いなっていう子はいます。親御さんが早く出なきゃいけないから、早く行かせられているって感じですね。 |
村井 | それで、何時まで勤務? |
歌原 | 子供たちは、遅い時は6時間目終わりの16時過ぎに帰る。一応、勤務時間は5時までなんですけど、5時までに終わりませんよ。帰れるのは、7時…8時…9時…。税金でやってるものだからなるべく早く帰りたいけど終わらない。で、仕事を持って帰ることもできないし。だから、家に帰るのが22時ですね。次の日は5時半に出てますし・・・朝はバッといける感じだったので5時に起きてました。寝るのは24時が限界です。 |
村井 | 大変だ〜。引っ越したのは? |
歌原 | 車で行けるところにしたので、30分ちょいで行けるところにしました。 |
村井 | 転勤はあるの?何年とかで…これも都市伝説? |
歌原 | 採用されて最初は最低何年っていう感じだと、新任の場合は基本的に6年はいる感じ。 |
村井 | しんどかったですか? |
歌原 | 担任をやりたくて小学校に勤めてたんですけど、行ったら音楽やってました。4月1日に辞令をもらいに行って、そこに各学校の校長が居合わせて、そこで初めてどこの学校に赴任するか言われるんです。何も知らされずに行って、その後校長の車に乗って各学校に行って…ドナドナですよ(笑)その車の中で、音楽で採用しますと聞いたの。結構、講師さんでやってるところも多いから正規採用でっていうのがいないっちゃいない。そういう意味で講師だった音楽に割り当てられた感じ。 |
村井 | 無理ですとは言えないの? |
歌原 | 言えないですよ。担任したかったっていうのはあるけど、しゃーないかって。 |
村井 | 歌原さんの人生、蓋開けたら違うこと多いですね。 |
歌原 | そうなんですよ。その時は、とにかくやらないといけないからやりましたよ。校長の車で学校へ着いて、隣に座ってた先生から6月に校内の音楽会がありますよって言われて…「2ヶ月もないじゃん!!」ってなって(笑)課題曲決めは、1年生だけは決めてもらって、私は2年から6年まで決めました。1年生も曲選びはアドバイスさせてもらってました。 |
村井 | クラスの子どもは多かった方? |
歌原 | 全校児童数は決して多くはなかったですね。1学年2クラスだったので。今どんどん減ってますからね。合併してクラスを増やすとか、要望としては受け入れてあげたいことだけど、あまりにもそれに伴って動くものが多すぎて。一存で決めることができなくて、そういう意味でも大きいものを扱うけど、動かしにくいっていうのがありますね。 |
村井 | その学校ではずっと音楽の先生? |
歌原 | 赴任して3年間やってたんですけど、その3年目の途中でぶっ倒れました。2年目の時に色んなことをしてました。学校全体でどうにか救いたいよね、っていう子がいたんです。先陣きって、半年間その子や友だちとかを朝集めてブレインジムをしてました。その様子が評価されたのか、3年目に主任クラスの仕事が一気に増えたんです。自分のクラスのことだけじゃなくて、学校全体のことを割り振られるんです。「あれ?わたしより後に入ってきた子達、主任やってるっけ?」ってくらい色んなのが降ってきたんです。どこにも私の名前入ってるけど…みたいな感じになっちゃって。担任が大変なのはわかってたから、できる限りやろうと思ってその年は頑張り始めたんですよ。子どもたちの為に色々やりたいなと思って、さっき挙げたブレインジムっていうのを勉強してたんですね。前の年まで授業の中でやってたんです。ブレインジムっていうのは、簡単な体操をして、脳と心と身体を勉強をしやすい状態にするプログラムなんです。そういうのもやってたけど、とにかく忙しすぎて目の前のことをこなさないといけなくて…3年目になった時に、できなくなっちゃいました。忙しさのピークの中、空き時間がほぼない状態になった矢先に、学級崩壊のクラスにヘルプで入って授業やってくれって頼まれたの。その学級の授業に入り始めて、空き時間ゼロになり、他の持っている仕事もやらないといけなくて、色んな行事が2学期は一気に準備が入ってきて、それでダメでした。 |
村井 | どうダメに? |
歌原 | 起きれなくなりました。今でも覚えてるんですけど、「連れてってくれ!」って泣きながら主人に言ったっていうのを覚えてます。でも、起きれないんです。全然体動かなくて。 |
村井 | えっ何か信号出てなかったの? |
歌原 | 2学期だったので、暑いじゃないですか。でも、首から上しか汗かけなかった…その予兆で。自律神経がやられてたのかな。予兆は出てたけど、でも「なんとかいけるだろう」とか、「私がやらないと」と思ってた。 |
村井 | 何で!周りの先生ポンコツ? |
歌原 | そんなことはないけど、なんか仕事の割り振りはおかしいなと思ってはいました。 |
村井 | 倒れてどうしたの? |
歌原 | 3ヶ月休みましたね。ただ、さっき話していたブレインジムを一緒に勉強していた人たちがすごく助けてくれたんですよ。自分自身の状態っていうのを観察するっていうことをやるワークだったんで、「今の私ってこうなんだ」ってやっとその時に、人のために使おうとしてたことをやっと自分のために使えたんです。何よりも自分を整えるって大事だな、と気が付いた。本当に状態があんまり良くなかったから「復帰せずにもうやめちゃおう」と思った時期もありました。でも、自分自身を整えていく中で、やっぱり子どもたちが卒業する姿を見たいって思ったんです。 |
村井 | ブレインジムってどんなプログラム? |
歌原 | 思考や感情、身体の感覚を観察しながら、本来の自分のパフォーマンスを取り戻すプログラムです。例えば私の場合、ストレスがかかると呼吸ができなくなるんです。息止めているような状態。「次年度の人事は私はこういう風な形でやって欲しいんです!」っていうのを管理職に言うって考えただけで、言えないような状態だったんです。でも、ブレインジムをやった後に「あ!なんか自分の言おうとした時の息のつまり方が楽になった」と、ちょっと前向きに考えられるようになりました。 |
村井 | ブレインジムは誰かに教わったの? |
歌原 | 教わりました。教員の研修会で紹介してもらったのを聞いて、大阪でやってる人いないかなって探して、その先生を見つけました。 |
村井 | 復帰した時の子どものリアクションは? |
歌原 | 子どもたちは意外と「あ!先生!」っていう感じ。子どもたちの方が逆にあったかい感じがではあった。あと、休んでいる間に子どもたちの親御さんからお手紙をもらったりとかもあって、それが励まされた。 |
村井 | ちゃんとやってきたからやろうね! |
歌原 | ありがたいことに。本当にありがたい。 |
村井 | 激務で倒れて、復帰した期間を振り返ると? |
歌原 | それがなかったら、今日こういうふうには話してないかも。倒れる前は、鬱傾向は多分ありましたね。ほんと最初は、過呼吸とか不整脈とかの症状だったんです。そこでメンタル面がどんどん…っていうのがあったけど、結局その薬を飲むのが嫌だったんですよ。それで、ブレインジムがきっかけでキネシオロジーを知ったんですけど、本来の自分ってどんなのかなって、やっと自分と話ができるようになった。っていうきっかけになったなあっていうのはありましたね。ブレインジムってキネシオロジーの一つなんですよ。 |
村井 | そっちにつながってくるんですね。そう言うことがあってこその今なんですね。 2016年の3年目の時に自律神経で倒れて、年明けに戻ってきてからは? |
歌原 | 「4月からは支援学級の担任がいいです!」ってやっと言えました。それで担任になれました。何年生ではなくて、支援学級なんで1年から上の学年までいっぱいいるんです。色んな学校によって分け方が違うんですけど、クラスによって国語の時来るとか、算数の時来るとか、というときに複式学級みたいな感じで異学年が同時にいる。っていう形でやっていたんです。元々、支援学級に在籍する子の人数は少なかった。ただ、私が担任になった時に一気に増えたんです。今までのやり方ではできないぞ、というタイミングに当たっちゃったんですよ。荒波に自ら飛び込んじゃうんです。やりたいと思って動いたら大体そういう感じ。 |
村井 | それが4年目でしょ。2017年かな。そこから滞りなく? |
歌原 | 滞り…ありましたありました。もちろん、やりたかったことなので色々試したり、それこそ多面的に見ることはできたんですけど、日本の学校が本当に子どもたちの元々生まれ持った力を伸ばせるか…って言ったら、やっぱりそうじゃないなって思うことが多かった。この解き方はできないかもしれないけど、この考え方だったらこの子はできるんだよなあっていうのがあって、それがとてももどかしかった。 |
村井 | 教員ってルールに嵌らないといけない中でブレインジムはやって良かったの? |
歌原 | 大ぴらにはできなかったかな…これいいですよって紹介はしていましたけど。最後の年に同じ地区の先生たちの研修会で受けてもらったりとかはしたんですけど。でも、やっぱり新しいことを入れるっていうことに抵抗感がある。 |
村井 | 新任から6年はいたの? |
歌原 | 6年経った時点で退職しました。2018年くらいに、近い将来私がいる場所はここじゃないというか、ちょっと違うよなって。「これはやっちゃだめ」っていうのは私自身、すごいストレスなんですよ。 |
村井 | 違和感あったのかもね。 |
歌原 | 私がやりたいことっていうのを色々な形で探して…というか分析したんですよ。色々な方のお力もたくさん借りました。私はずーっと公務員以外のものになれないな、って。安定から離れられないけども、離れたい自分がいて、そういう苦しい状態をずっと続けるのかなって思ったんですよ。でも、いざ自分がほんとにやりたい、人生で成したげたいことを掘っていった時に、私は全ての人が生きやすい世の中を作りたいんだなってことが見えてきたんですよ。 |
村井 | 子どもの話から、すごく大きくなりましたね。 |
歌原 | 保護者さんたちとたくさん話をする中で、保護者さんもむちゃくちゃ頑張ってるけど、どうにもならないことがある。子どもたちがその影響を受けていることがすごくあったんですね。だから、子どもたちだけにケアしているだけでは足りないなっていうのがあったんです。決して保護者さんが悪者ではなくて、子どもたち以上に、大人に対してアプローチをしていかないと良くはなっていかない。じゃあ子どもたち以外にも、大人に対しても提供ができる環境に行ってもいいんだよなって思って…「私、別に教員じゃなくてもいいかもな」って思うようになったんです。 |
社会人(教員退職後) | |
村井 | そう思ってどうしたの? |
歌原 | ずっと特別支援について勉強をしていたんです。そこの先生たちから「こういう事業を来年度から始めるからやらない?」っていうお話がありました。2018年の9月くらいに。学校は毎年10月に「来年度どうする。移動したい?やめたい?」っていう調査があるんです。たまたまその調査の前に、事業のことで声をかけてもらってたので「今年度で辞めます」っていいタイミングで言えました。自分がこういう方向に行きたいんだなって分かったら、現実がちゃんと動いてくれるんですよね。 |
村井 | そこで、教員辞めたんだね。 |
歌原 | そうなんです。2019年3月に辞めた後にも色んなドラマがあったんですよ。誘って頂いたお仕事の職場は家から片道2時間かかる所でした。新しい日本の特別支援の形を作るために研究ができるところっていうのを、民間業者さんと提携して施設を作るメンバーとして加えてもらうことになったんです。でも、私が行く数日前に、その民間業者の運営元と先生たちが喧嘩別れしてしまって…4月、蓋を開けたら、あれ?みたいな形になりました。そこは障害のある子たちの療育施設で、新しく子どもたちは来るから稼働させないといけない。最初の2ヶ月くらいはほぼ記憶がないくらい、とにかく土台を作って回していた感じ。ゆくゆくはその施設の管理者になって欲しいって話も上司から早々にありました。それも一つ生き方なのかなって思っていました。でも、2019年にの8月に救急搬送されたんです。搬送されることが今まで何回かあったんですけど、そっちの方向じゃないよ!っていう時に起こるんですよ。やっぱり今の職場でやろうとしてることは私が続けていく道じゃないのかなって思い、9月末にやめることにしました。 |
まとめ | |
村井 | 気になったんだけど、先生する中で考え方変化してるよね。 |
歌原 | 生まれながらの強みやいろんなものを持って生まれてきているのに、「このやり方でこうしようね」っていうのが今までの日本の学校教育。でも、それは違うよなって思ったんです。生まれ持ったものを活かせているのが生きやすいのであって、自分が持っている力を使えないから生き辛い。本来の自分じゃなく生きてるから生き辛い。それは大人も同じだから、制限されたことを取っ払っていいんだよって。本当に自分がやりたいことを自分が持って生まれた…私は宝物って言うんだけど、宝物を生かしていくっていう大人も子供も増やしていきたいんです。 |
村井 | それって、歌原さんにも当てはまりますよね。情報過多な時代でストレスが多いんですかね。 |
歌原 | 今思ったら、過去の自分にやりたかったことですね。今が情報過多なのもありますし、生活様式とかも変わって、本来は動くことで人間の脳が発達し、学習の土台ができるんです。動くことはすべての始まり。赤ちゃんがだんだん転がってたのが、寝返りできたりするのは同時に脳の進化なんですよ。でも、それがいろんな便利なものが出てきた。こういう平面なオンラインでのテレビ電話は、便利ですけど、すごくストレスかかってるんです。なので、そういうストレスを受けやすい社会になった。それによって子どもたちの発達が阻害される要因が増えてきました。 |
村井 | 一人の力で変えていくにはハードルが高いですよね。 |
歌原 | 子どもたちの発達のことについては、一緒に勉強してきた仲間とNPO作りたいね、ってなっています。自分自身の活動としては、大人に対して「本音の根っこ発掘」っていう、自分の持って生まれた宝物を活かせる大人、「動きたいけど動き出せない」という方たちに対して、本当に生きたい人生を一歩踏み出しましょうよ!っていうセッションなどを今はしています。 |
村井 | すごいね。最後に歌原さんは何してる人って言ったらいいの? |
歌原 | 本音の根っこを発掘する人、ですかね。「本音の根っこ」という言葉を作りました。持って生まれた宝物を生かすということを本音の根っこ発掘のセッションでやってます。自分のことがわからないと人はなかなか行動できないし、これでいいのかな…って迷ってしまう。強みや課題、行動しようとしている時のストレスはこれだよね、っていうことを認識してもらうサポートです。キネシオロジーをしている人はたくさんいるんですけど、本音の根っこって言ってるのは私が最初です。 |
村井 | それが、これから歌原さんがやっていきたいこと? |
歌原 | 自分自身のことって一番自分がわからないじゃないですか、でも自分ってこういう人間なんだっていうのを自分の生まれ持ったパターン、考え方のパターンだったり、体の使い方のパターンというところが分かってくると「こういう時に、ストレスを受けやすいんだ」とか「こういう状況でちょっと動きにくくなるんだな」とか…だんだん自分の扱い方がわかるんですよ。自分の扱い方を知って、一歩進めない時にはどうやったらいいのかなっていうのを、道を切り開いて進んで行ける人を増やしたいです。 |